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神
仏
習
合
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歴 史
太古の日本人は、山川草木・海、磐座(岩・石)など全ての自然物には命が宿っており、
その恵みと災いはその「命」によるものという認識を持つ自然崇拝、また亡くなった霊魂を大事にする祖先信仰など
大自然・宇宙や祖先への畏敬の念を基として行われた祈りの作法・儀式である、いわゆる古神道があった。
この価値観は私たち日本人が等しく胸に抱く普遍的価値観として古来より脈々と今に受け継いでいる筈である。
そこに6世紀(公伝諸説あり)、欽明天皇の時代に百済から仏法は「最上の教え」であるからという上表と共に
仏教が入ってきたとされます。
その当時の仏とは外国の神という意味の「蕃神ばんしん」と呼ばれていました。
国を治める政治として、仏教を取り入れるべきか否か論争が起こります。
諸外国において礼拝され先進国家に改革し、国家を守る為にも仏教を取り入れるべきだと主張する蘇我稲目と、
蕃神(ばんしん)を取り入れれば元々の国神からの怒りを買う事になると主張する物部氏・中臣氏。
この対立が激化してはならないと、天皇は慎重になり、蘇我氏だけに仏教を受け入れるよう許可します。
やがて蘇我稲目の子である馬子と聖徳太子が政治の主体となり、
天皇制を確立し天皇も仏教を取り入れていくこととなります。
これが日本古来の神と、蕃神融合の始まりです。
展 開
国の宗教として仏教が採用され、一気に民衆にも広まっていきます。
大衆に広く受け入れられたのは、古神道で大事にしてきた価値観である祖先崇拝と死生観とが一致した事、
また古神道には特段の教義が無く感覚的であったのに対し、仏教には学術的な教義が存した事もあり、
神仏が融和することで感覚的な優位性と学術的な優位性が結ばれ双方の理解が進みやすかったものと推察されます。
奈良時代の代表寺院といえば、奈良の大仏がある東大寺。飢饉や反乱、災害が次々と起こり国難を平定する為に、
聖武天皇の詔により東大寺が建立されます。
建立の際には、この大仏(盧舎那仏)を守護する神として、
宇佐八幡宮から八幡神が勧請されています(手向山たむけやま八幡宮)。
当時、世界の中心として栄えていた唐から密教経典が少しずつ入り出しますが、
その唐から正式な密教(恵果和尚からの受法)を相承した弘法大師空海が帰国。
嵯峨天皇の後ろ盾を以て真言密教を確立します。
密教とは仏教を基としつつバラモン教やヒンドゥー教、ゾロアスター教(景教も取り込まれた説あり)など多種多様な神々や呪術的要素、アルケミーなどを受容し取り入れた、最新且つ最上の秘密仏教でした。
この密教に国は更に期待を寄せ、多くの仏たちが大衆の細部の悩み苦しみへ対処をしていったのです。
「時に弘仁九年の春、天下大疫す。爰に帝皇、自ら黄金を筆端に染め、紺紙を爪掌に握って般若心経一巻を
書写し奉りたもう。予、講読の撰に範って、経旨の宗を綴る。云々」(般若心経秘鍵上表文)
嵯峨天皇は、疫病大流行の折、その退散を祈念する為に、一字書く毎に仏に三礼する「金泥一字三礼般若心経」の
写経をなされます。
嵯峨天皇の御写経を空海が加持し、「般若心経秘鍵」を講じると空海が文殊菩薩の姿へと変わり、
疫病が退散したとされます。
後、宮中に真言院を建立し正月八日から七日間、国家安泰・玉体安穏・五穀豊穣・万民豊楽を祈る後七日御修法を
密教最大の厳儀として執り行わせます。
また、嵯峨天皇は「天爾瑞宝十種・あまつしるしみずたからとくさ(十種神宝)」の図を、伊勢神宮にて空海に
写させ、「生玉いくたま」を如意宝珠(能作性宝珠)とするようお伝えされました。
神道の根本である十種の神宝は仏法の十善戒、三種の神器は三密の法に対応します。
これは、四魂(五魂)の結びが種々因縁において分断しないよう祈る法であり、
すなわち、赤心・浄明正直を要とし禊祓の法を麻・言靈・作法とするを根拠と為します。
如意宝珠(生玉いくたま・能作性宝珠)は、
天照大御神・大日如来(不動・愛染・如意宝珠を以て天照大御神とする説有)の垂迹となり、
ここに神仏習合を以て玉体安穏・衆生教化の業と為してきたのです。
天皇は即位する際に大嘗祭と共に密教儀礼で即位灌頂を行い、
その靈威を以て天皇の座に正式に座してきた事もまた、
この国が神仏習合の祈りによって護られてきたことを示すものとなります。
神仏習合の歴史や祈りを、さらにひも解き詳らかにすることは可能ですが、
長文難解となることを避けるため、この欄ではここまでの表現と致します。

神仏の分離政策
歴代天皇が国の統治ならびに国難に際し頼りにしてきた仏教・密教。
また、日本の神が仏教を守護している護法善神思想など寺院と神社が同境内に有り神前読経などを行う神宮寺の建立や、八幡神が八幡大菩薩と称されたりと、本地垂迹説や神本仏迹説が唱えられながら、
日本の神と仏教・密教の仏は同体でもあり、相互に助け合うものとして神仏習合が隆盛を極め、
仏教・密教的にも神道的にも体系化が進み、鎮護国家から万民豊楽まで日本・そして大衆を守護してきました。
時は流れ江戸末期。尊王攘夷派による倒幕運動が加速し、遂に大政奉還となります。
明治新政府(おそらく西洋国に煽られ)は、これを期に日本は神の創られた国であり、
天皇は神の子孫であるから神仏習合の必要は無いと「神仏分離令」、更に王政復古・祭政一致には神道のみを
国家公認の宗教とすると「大教宣布詔」を発します。
要は天皇を利用し明治新政府の体系を強固にしようとしたわけです。これにより、神道と仏教は分離そして寺院は破壊。
歴史的な仏像や経典は燃やし尽され廃仏毀釈運動が激化していきました。
日本においての仏教・密教は徐々に衰えていくと同時に時代背景の影響もうけつつ日本人の「精神」にも
乱れが生じていったのです。軍閥政治による富国強兵を意図した国家神道。
その体系が整わない混乱の時、世界大戦が勃発し我が国は敗戦国となり、国家神道さえも解体されたのでした。
長きにわたり培われてきた古代日本人の大自然・宇宙・祖先への畏敬の念も衰えはじめ、
人心は「モノ」「物質性」へと傾き始めます。明治・大正・昭和の時代は戦争の時代であり、精神破壊の時代でした。
原子力を象徴とする第二次大戦。そして物質的高度成長。戦後の日本はGHQの計画に翻弄されながら、
社会構造としては物質一辺倒たる時代を経て、今に至っています。
令和へと時代は推移し今、まさに精神性と物質性の両儀をまつり合わせるべき時でしょう。
一度破壊されたからこそ、その大事さを理解できるであろう、神仏習合・神仏和合の威力を以て
日本が誇る祈りの力を復活させるべき時であることを確信しております。
天皇と密教
・天皇と密教のはじまり
天皇が仏教を取り入れ、国家安泰を大きく顕した代表と言えば、奈良時代に聖武天皇が造立した東大寺の大仏・盧舎那仏である。
その後、奈良仏教が確立して隆盛を極めていくのであるが、平安京に都が遷都され、
奈良仏教は停滞する。
平安時代に日本の仏教に新しい風を入れたのが、伝教大師「最澄」と弘法大師「空海」である。両師はまだ日本には入っていない仏法と仏教経典を求めて、入唐求法された。
先に帰国した最澄は、天台教学と密教を持ち帰り、法華経を軸とする顕教と密教の修法により、鎮護国家の法を行うために天台宗を開く。
後に帰国した空海は、密教の正当な継承者である青龍寺の恵果和尚より密教の法灯を授けられ、密教経典、法具、仏画等を持ち帰り、「請来目録」にまとめて朝廷に進献する。その後、嵯峨天皇が即位し、書や詩文や唐文化に大変関心を示されたので、入唐経験のある空海と交流を深められた。都が飢饉や戦乱で乱れる時、空海は密教の法により鎮静した。嵯峨天皇は空海が行う密教修法の威力を幾度も目の当たりにしその靈威を確信。
修禅の道場として高野山開創の許可や、官寺であった東寺を下賜されるなどされた。
空海は東寺に密教の曼荼羅世界を創り上げ、
「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」略して教王護国寺と号し、鎮護国家の密教根本道場とした。更に大内裏に、真言院を創り天皇の玉体を加持し、国家安泰、玉体安穏、万民豊楽の為に「御修法」を行う。
嵯峨天皇と空海以来、毎年正月八日から十四日まで、宮中真言院にて「後七日御修法」が行われてきた。
※室町期と明治期に一時中断されるが、現在は東寺で行われ、天皇の御衣を加持している。
・天皇の即位儀礼
天皇が即位する儀式として整備されたのは、天武天皇期である。「天つ神の御子」として儀式を受け、皇祖神、歴代天皇、万民に知らしめし皇統を継承するのであるが、中国の皇帝が仏教の授戒を受け、自らが仏となり「皇帝菩薩」として国を統治していくものに習い天皇にも授戒が行われてきた。空海は平城上皇、嵯峨天皇に授戒をし後に天皇の即位儀礼の中に密教儀式「即位灌頂」が取り入れられる。神仏習合では大日如来=観世音菩薩=日天子=天照皇太神であり、天照皇太神の子孫である天皇が密教儀式による即位灌頂を行うことは自然の流れであった。即位灌頂が行われたと最初に資料として残るのは南北朝時代の伏見天皇である。即位灌頂では摂関家より印と真言を受け、即位灌頂を受けると「金輪聖王」となり、仏教世界の最高位の王となる。この即位灌頂が最後に行われたのは江戸期最後の「孝明天皇」であった。
次代明治天皇は政府の仏教色の排除による政策により即位灌頂を行うことが出来なかった。実に500年続いた皇統継承儀式が廃された背景に対し、現在も様々な憶測が飛び交っている。
・国の繁栄の鍵は仏法にあり
後宇多法皇宸翰御朱印遺告 第三条 現代語訳に、以下の言葉が存します。
「考えてみるに、わが大日本国なる国号は人為的なものではなく自然法爾の称号であって、密教に相応しい法身大日如来の仏国土である。だから私の後に続く受法の弟子ならびに皇統を伝える天皇は、盛衰を同じくしなさい。興廃を同じくしなさい。もし、わが仏法が断絶・荒廃すると、皇統も同様に廃滅するであろう。またわが寺が復興すると、天皇のまつりごとも安泰であるであろう。決して私の考えに背き、後悔してはならない」
自ら出家して法皇となった天皇は歴代三十余代にもなる。多くの歴代天皇は、仏法の盛衰が王法の盛衰を決定するという仏法王法相依論の考えをもってきた。つまり、日本は仏の本国であるので、仏法と王法は車の両輪・鳥の双翼のようなものであるから、国の秩序と政治の繁栄は仏法を護持することを大事にしてきた。
形而上から形而下へ、
目に見えない世界から現実世界を動かす決定的な力を生じさせるのは、
祈りであり神仏の力である。
故に行者ならびに神職は、朝に夕に国の安泰・世界の安泰と天皇の長遠、さらには人々の抜苦与楽を祈り続けるべきなのである。
明治期より「国家神道」を確立せんとし、
天皇を国家神道の最高祭祀と定めたわけですが第二次大戦後天皇と国家神道は分断され、
宮中祭祀は厳密的には天皇の私的儀式となっているのであるから、
いつまでも、祭祀を天皇(陛下)ばかりに頼っていてはいけない。
上意下達のピラミッド方式を超越し新しい時代を開いていく為には、
私たち自らが祈り、この社会への責任を一人ひとりが「担っていくのだ」という当事者意識を育んでいくことが肝要になっていくだろう。